リテラシーは教育から、生きやすさの件



人間ヤッパリ、生涯教育。

"人は考える葦である"とは、よく言われたモノです。パスカルは天才だった。

さて、昔の権力者の中には、庶民に知識を与える事を拒んで、年貢を納めさせ奴隷のように使役していたという歴史観の一面があって、例えばお隣の国の歴史書の中に、鄭(てい)の子産(しさん)が初めて成文法を為したことに対して、晋の賢臣と言われる羊舌肸(ようぜつきつ:叔向)から、たしなめられ、その件を儒教も道家も羊舌肸サイドを支持した結果になっていて、それが老孔の教えの時代の限界を正直に露呈しています。

その様なお話には、歴史を学ぶ価値があるとも思っています。

つまり、論語も道(タオ)も兵法も、学ぶべきことは今でも多くあって、参考になるお話もあるけれど、生身のそれらはその時代に考えられた発想だという事も歴史は教えてくれていて、それらは時間の中で色合いが変わって来た事が、歴史のお勉強の中でリテラシーとして私たちに考える事を教えてもくれているのだと思うからなのです。

昔は法律を庶民に教える事は、国家の興亡に掉さす事として、権力者にはその点でネガティブに捉えられていた。

今に言い換えれば、情報には価値があって知る者と知らざる者の間に電位差が生まれて、それが動力の源になるような発想。貧富の差が自由市議経済のエネルギーだとでも受け止められそうなイメージがあります。

もし、官僚や政治家たちの皆様が、その様な発想で国家の運営に血眼になられては国民は、たまったものじゃない。

例えば、千兆円の負債が国民に課せられているという一面だけをデフォルメした見解とか、消費税・税金や国債に関するイメージ操作を匂わせる見解とか・・・。

もし、それが真実だったら、如何なモノかと思うのです。

経済界では公取法なるもので結構派手に、報道されたりもしていますが、官僚の健全性はどの様に担保されていて、経済界の公取法の様な処方が官僚の秩序に果たして、同等クラスの効果を発揮しているのでしょうか・・・?

あるいは今なお右翼左翼などの、二項対立的一見単純な発想で、今を論じられたリして、現実と論争の乖離に虚しさを感じることがあったりもします。

まさしくどこまでが真実で、どこから虚構なのかグラデーションのついた話題の色々。

そこには真贋を見極める事がリテラシーでもあり、コスモでもあって、グラデーションはカオスで人の遊び心を刺激して、そこにも経済が生まれたりと言うような発想も浮かんできたり・・・。

人類の進歩の歴史の中には、生きやすさを追求してきたがために、生きにくい部分も結構生産してきたとも思えたり・・・?

けれども、人間ヤッパリ、生涯教育なのだと思う今日この頃な今回も一人漫才なのです
m(_ _)m